奈落の底への伝言4/1 ― 2012年04月01日 21:11
前回、諭吉師匠の“人生の楽事”の出足部分を書いた。その続きである。しかし、かなり驚いたのは私の知識の無さである。ふと、夢想するのは誰にもあろうけれども、まさか、物理学とは!・・この点だけなら自分にも似ていることであるし、と、思い当たられる方も多かろう。涙無しでは読めないことである。その昔の、若者だけだろうが。
奈落の底への伝言55・・人生の樂事2 福澤諭吉
蒸気や電気の働は太古から見えていたのであるが、文明が原始的すぎて長い間、認識ができなかっただけだった。近年になり、始めてその糸口を探り出したのである。今後、知恵を出し合えば次第に進歩をし、より深い領域に達し、そうして人間は未熟さを思い知るのである。その意味では、今日は、まだ・まだ暗黒の時代ということもできる。ここに、一心不乱に物理学を探究し、創造主(大自然の法則)の祕密を解き明かすことは人間、無上の快樂にして、王公の富貴も榮華も、うらやむには値しないだろう。このような大宇宙の法則を解き明かそうとする者は、世間を眼下に見て、その劣等をあわれむと同時に、次のようなことをも空想するのである。
例へば動植物生命の仕組、地球の組織又、天体との関係、化学の及ぼす作用の限界点や宇宙の作用とか原則は定まってしまっているか、とかを微々細々に思へば、何百もの疑問が数限りなく出てくるのである。見渡す限り、まるで宇宙の法則の秘密に囲まれていて、ただ人智の貧弱さを思い知るばかりである。
学問が進んで、どのくらいで行き止まるかを知らないのも、また、これ人生の約束であるので、意欲的に知見を広め、あたかも創造神との境界を(あるいは覇を)争うことは、学者の本領と信じて疑わない。さて、日本人の性質を見るに、西洋文明の新事を知ったのは最近のことだけども、知識の教育練磨は千百年来の教え(国訓)であるから、真理の追究に苦しまないばかりか、創造力が乏しくはなく、単に西洋を真似するごときの時代は既に通過し、今や西洋のライバルの勢である。今後、学者が努力をして、抜き去るべきことと思っている。これ、我が国の一大快挙であるが、ただ困ったことに、一心不乱に取り組めるような境遇に、恵まれていない者が多いことだ。

奈落の底への伝言4/2 ― 2012年04月02日 00:37
前回、一心不乱という言葉を使ったが、一意專心と記録されていた言葉(青空文庫の方々には感謝の一語である)を書き換えたものである。これを易しくいえば“好きな事こそが、ものの上手となれるもの”となろう。今回の文では、その境地が語られる。顔にザブリと冷水を・・という状況のことであるが、古今の多くの天才に観察される事柄であり、師匠の博学が読み取れるとともに、学問を成し遂げるべき人の判定の基準となろう。・・・それで診れば、君はどうなんだい?
奈落の底への伝言56-人生の樂事3 福澤諭吉
どのような学者でも、身体は雑草とは違い、衣食の心配をするしかない。しかし、生計を立てることは、人生に最も煩はしく、學者の思想を妨ること、はなはだしいのだ。一人孤独に、深く思いを巡らし、宇宙の大より物質微塵の細に至るまでの理論を探り、その働を察知する行為は、一瞬、やったと思うが、又すぐに矛盾に突き当たり、夢中になって我を忘れて、一心不乱で、耳目鼻口の感覚も殆んど機能を中止したかのような最中に、突然と、日常の漬け物や飯を稼ぎ出するような用事を催促され、金錢受授のような俗な事に応ずる他はない状況では、思想の連鎖が一時に断絶し、元に復旧する事ができないものである。これは、例えば熟眠、夢がちょうど、たけなわの時に、顔にザブリと冷水を注がれたようなもので、殺風景とも苦痛とも形容の言葉がない。もう熟睡には帰れないのと似ているのである。世間一般の人は、さほどには思わないだろうが、学ぶ体験をしてみて、この苦痛の苦味を知ることができる。今日、政治家には、哲学者もなく、新聞記者にも物理學の專門家は少なく、開業医師に研究医は稀だし、坊さんにも善知識をみることができないのも偶然ではない。だから、この研究の妨害を除て、一心不乱な環境を実現するには、学者に衣食を支給して安心させる方法が必用で、ひそかにその方法を考えると、法律規則を以て組織した政府などには期待しないがよい。学問をやったことのない人々で作っている俗政府の俸給などで衣食し、俗物(役に立たない人物)と交際し、学識のない俗言を聞き、甚だしきは、その俗物の干渉被害を受け、催促を受けながら、学問を研究しようとするようなことでは無益なことは言うまでもなく、たとえ、世間有志者の発意で、私に資金を支給しようとする者があっても、これを支給すると、公共のためにも私のためにも、素早く成果を求めようとするような仕組だから、本来の目的になじまないのである。

奈落の底への伝言4/2 ― 2012年04月02日 22:28
前回の文末には、研究の成果の見方が論じられているが、政府の事業仕分けとかのスーパーコンピュータの一件(世界ナンバーワンをめざした企画)が思い出される。この手の研究者に支給をしないとなると外国に雇われてしまうので、やはり、優遇が良いのである。昔、ヒットラーがイスラエル系という理由で科学者を追放したために彼らは米国ロスアラモスで原爆を完成させてしまったことは教訓であろう。
奈落の底への伝言57・人生の樂事4 福澤諭吉
本当のことを言えば、まあ、一種の研究所を設置して、5・6名~10名の学者を選び、これに生涯安心の生計を授け、研究以外の心配を無くさせ、しかも、その研究する事柄もその方法にも本人の思ふがままに一任し、口を出さず、成績が利益が上がったかなどは不問にする。むしろ、今の世に言う利益に遠いものを選んで(基礎的な学問のこと)理論を究め、これに達しないも良しとし、このために金を費して全く無益に屬するも良いのであって、その人の一生涯に成果が出なければ第二世代に次ぐのも良いとするのである。研究者が病気の時には休息するのは勿論、無病にても気分に進ま無いときは研究を中断するのも良く、努力も怠けるも勝手次第で、俗に言えば学者を放し飼いにして、又、飼殺しにすることだ。このようにすれば万事、取締は無しで、とうてい成果を挙げることがなしと思ふ者が多いけれども、元来、学者の学を好むは、酒飲みが酒を欲するように、周りの者が、これを制すことはできないばかりか、自から禁ずることもできない(酒が好きのように学問が好きな者を集めているのであるから)のだから、いわゆる放し飼いは、その勉強を促すの方便にして、俗界にあるような規則取締等こそが研究を妨る害であると知らなければならない。だいたい、このあたりを改革すると、日本の学者も始めて能力を出し、辛苦勤勉・心身の力を発揮し、遂に宇宙の法則の祕密を拾い出し(発見して)、必ずや、世界の物理学会に新分野を開くであろう。

奈落の底への伝言4/3 ― 2012年04月03日 22:30
師匠は大酒飲みであったと告白しているが、好き者(科学の)とは、そのくらい好きな者でなければならないということである。ちょいとペーパーテストが名人ぐらいでは軽業師(この仕事に人には失礼なことであるが)か、処世術師ぐらいのことであるというわけだ。好き者は中毒者のようなもので、外部者にも自分にも止める事ができない・・そういう能力の者を厚遇すれば、国家、国民はもちろん、世界のためになるというわけである。
・・・うーむ、じっと手を見た、ことである!
奈落の底への伝言58・人生の樂事5 福澤諭吉
試みに費用を概算すると、10名の学者に1年1200円を給して計12000円(この種の学者は世間に交際も少なく、衣食住を欲張らず、俗な欲望もなく、独立していて仙人のような者なので、一年の生計1200円にて十分である)この外に、一名に付き毎年300円を生命保險に掛けて死後の安心をすることもあるので学者の身にかかる費用は15000円で、他は研究の費用だけだ。それを35000円とすれば、合計で5万円(現在の金額では年間5億円ぐらいか)を毎年消費する勘定となる。なお、十名中には死ぬ者も中途で辞める人もあるし、又、不徳にして怠け者もありえる。しかし、十名全部の完璧を望むのは、人間には無理なる注文だから5~3名が残れば良いのである。一人の学力が全世界を動かす例もあることなので。めざすところは、ただ、その学問の高尚と深遠ということだ。(ノーベル賞級ということ)
以上のことは、私が若い頃から想像したことで、人に語るも無益と思い、一、二の親友の外には口外したこともなく、人生の運命によって万に一つは、自分の身に叶ふこともあろうかと一人ひそかに夢想したことで、愚か者の夢にして、生涯に叶うようなものではなかったことです。ですが、諸君は若いので、一生の内には幾多のチャンスがあるでしょうし、あるいは大資産家となり、衣食も足りて別に心身の快楽を求め、中には、上に言ったような境遇に巡り会うこともあるでしょう。その時は、昔々、明治26年11月11日に慶應義塾にて今日の演説を聞いたことがあったと思出し、何か、面白い企画でもなされば、私の生きている時でなくとも、死後であっても、草葉の陰より知友の快挙に大万歳を叫び、感激のあまり号泣することでしょう。・・

奈落の底への伝言4/4 ― 2012年04月03日 23:59
奈落の底への伝言59・・天の命ずるところ
前回の最終の場面は号泣でしめくられているが、記録文では“知友の美擧に感泣することある可し”となっている。おそらく、官費による研究費を概算したところで、やや、虚無な感覚とでもいったものにおそわれ、最後に、日本人の心意気を示すと共に世界への貢献に感動したい、そう締めくくるしかなかったのだと思う。
たしか、アインシュアタインが「科学者は靴屋にでもなれば良いのであるが」と言ったとされるが、それも実際の靴屋を体験したわけではなく“靴修理でもしながら物理への夢想にふけりたい”といった意味で使った、そんな感じと想像した。まあ、やはり夢であろうが・・とするしかなかったわけだ。
とは言え、創造(生み出す)への環境とは、このような犠牲無しではできないという事を述べたことと、その当事者像(物理学者像)を述べたことは、非常に重要と思う。逆に、この2つのような状況を作り出せれば、大抵は叶うとなろう。
インターネットの記事によれば、たとえば、デカルトは、戦闘状態になっていない軍隊に身を置くことで、孤独にして集中夢想状態を実現して偉業を達成したという。若い者(特に大学生)も私たちも、花を咲かせずに終わるようであってはならないと思うばかりである。花にたとえたが、実力が出せる設計の我が身は、咲かせることが天の命(創造神の与えた使命)であろうと言っているのである。

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