梅林公園に行こう2015年02月05日 00:59

梅林公園に行こう

谷尾崎梅林公園 梅まつり

 何ということだ!小梅は偽善者であったのだ。
与三爺さんは、それでもメメしく、小梅を忘れられなかった・・男は皆ソウ。は、置いておいて、偽善はイカンと思った。確かに思った。
 ここ、人間の分岐点だった。しかし、偽善は良くないと思っているなら、善兵爺さんのキャラクターと同じなるから、これ、設定の誤りか。

 名のある小説家も、このようなことに遭遇して困るらしい。ああっと、確か、後で困らんように、あのページあたりにアンな事を書いていたハズだったが、どこだったかな?って成って、その場所探しに明け暮れる。
  これはパソコンでも同じで、アチコチにコピーとか作っておいたのに、欲しいところだけがスポッと行方不明。よくあることだ。こういう時は、まずは、ああーとか声を出す。大きな事務所だと、そう言う声が時々起きる。削除や初期化してもた・・話を戻さんと、どんどん乖離するね。

 与三は分岐点にいた。分岐はデジタルだと2種類しか道がないが、人生だと何でもあるように思う・・・それもデジタルで表せるとか言うモンもおるが、無視しておこう。で、どこに行ったか?
 与三は、自分自身の正体を自覚できない偽善者だったのだ。・・そう来たか。
 こういう人のこそをいうのに、ちょいと昔のことを言う。
 教えてください。知って行うことと、知らずに行うことは、どちらが罪深いでしょうか。シッダールタが答える。それは、知らずに行うことだと。

 この答えは単なる一重の意味ではない。このお方は、ダブルスタンダードでもあって、ああも言う、こうも言う人なのだ。何だ、それ、ブレではないか?いやいや、世の中の仕組みをいえば、そういう表現でしか記述できないのだ。写実するとそうなる。何とでも言えるのだ。ということは、「それは知って行うのが罪深い」と答えても、まあ、何とでも言い逃れられるのだ。

 とにかくだ、与三は知らずに行っているから罪が深い。交通事故でいえば、相手が見えていないので大怪我をさせる。見えていれば、まあ、チョットは手加減したのだ。
 くりかえそう。与三は、自身が偽善であることが自覚できない偽善者だった。うーむ、悲劇である。が、人ごとではない。我々はボケとるが、自分自身は正気と確信しておるのだからだ。そういう人とかがブログを書く。危ない、信じすぎると毒。

 与三は、やられた。小梅にやられたのだ。偽善者めぇと声に出たほどだった。だが、自分にこそ偽善があったが、全く、自覚ができない。目に映るものが真実としていたというから、与三の場合、最も、やっつけたいヤツが、何と、身の内にいるのである。から、ソレ、双眼鏡でもスバル望遠鏡でも見えん。よって、そういう偽善のようなもの無いと判断するしかない。お友達も、まあ、言わんわね。世の中、賢い人ばっか。沈黙は金だ。

 フムフム、で、君は何で話を進めんの?  あ、これは聞き捨てならない。だって、この話、みんな知っているでしょう?何、急ぐの?

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